仲代表の「グローバルの窓」

仲代表の「グローバルの窓」

第40回 “Please stay in regular contact with the Mama-san here.” (ここのママさんと定期的にコンタクトを持つように)

2023.04.10

 アジア事業部が管轄する地域は、中国、香港を除くアジア諸国でした。ただ、私は在任中、なぜかタイだけは担当することはありませんでした。シンガポールとインドへの出張がほぼ毎月ありましたが、それ以外では、台湾、マレーシア、インドネシアが多かったです。香港もアジアの全体会議などがあり、頻繁に出張することがありました。

 インドのページャー事業は一進一退で今一つ伸びず、そうこうするうちにアジアの通貨危機(1997年)が起こり、部全体が大変厳しい状況に追い込まれました。前年にフィリピンに販売法人を設立し、事業部長自らが初代社長として赴任しましたが、フィリピンもアジアの通貨危機に巻き込まれ、事業は急落しました。インドネシアに出向した私の部下は、アジアの通貨危機により国に暴動が起こり、危険が迫ってきたので、1年足らずで台湾へ移りました。スハルト体制が崩壊したときのことです。

 このようにアジア事業は台湾を除き一気に落ち込みました。1996年に設立したフィリピン法人は3年目(1998年)に債務超過となり、リストラを断行せざるを得ないところまで追い込まれました。本社は若返りを図るため、社長交代を決め、課長の私を出向させました。それまで3回くらいしかフィリピンに出張したことがなく、しかも、フィリピンはしばらく担当から外れていましたので、寝耳に水の異動でした。子供がまだ小さかったので、妻と相談し、年何回かは日本に帰国することとし、単身で赴任することにしました。

  1998年11月、マニラに赴任し、元上司で事業部長だった方(初代社長)から引継ぎを受けました。業務上の引継ぎを一通り終えたあと、「最後に夜の引継ぎを行わないと」と言われました。彼は以前、首席駐在員でマニラを経験しており、今回が二度目の赴任でした。首席駐在員のときは若かったので、夜も積極的に活動されたようですが、今回は二度目で齢も五十を超えていましたので、あまり外には出歩かなかったとのこと。「今回はあまりお店を開拓しなかったので夜の引継ぎはできないから、自分でお店を開拓してくれ。ただ、重要なお店が2軒あるので、そこだけは引継ぎをしておくよ」と言われました。

 「我々の会社では、フィリピンに15もの工場や拠点を持っているから、本社から社長や役員がよく出張に来る。そのとき、二次会に行きたいと言われたらこのカラオケ屋に来るといい。ここのオーナーはマニラの市長なので安心で、安全だ」とのことでした。瀟洒な建物で、完全個室がいくつもあるので、周りを気にする必要もなく、確かに使えそうでした。

 「もう一軒はここだよ」と言って連れて行かれたのは、少しうらぶれたお店でした。何でこんなお店と怪訝な顔をする私に「ここには月に一度は来て、ママさんとコミュニケーションを持つように。フィリピンは日本人社員がよく女性問題を起こすから、そういうときにここのママさんに相談するといい。我々日本人にはフィリピン社会の裏のことはわからないからね」とのことでした。

 いろんな引継ぎを受けましたが、このカラオケ屋2軒の引継ぎが今も心に残っています。実際、フィリピンで仕事をして、この引継ぎのお蔭で助かったことが何度かありました。諸先輩方が築き上げた人脈やノウハウが私にも引き継がれていく、こういう隠れたところに会社の力が宿っていると思いました。

 この上司には毎年年賀状を出していましたが、今年は来ませんでした。1月になって奥様から亡くなったという葉書をいただき、しばらく呆然としました。同僚の女性や元マニラ駐在員の方々と四十九日のタイミングでお墓参りしましたが、そのとき同僚の女性が「これ覚えてる?」と言って一片の紙を見せてくれました。

 一舟の海ひらきゆく初日かな

 それは上司の直筆による私の句でした。私は毎年、一句を添えて年賀状を出していました。あるとき、「そろそろ年賀状を書くのをやめようかと考えています」と話すと、「おいおい、やめないでくれよ。君の一句を毎年楽しみにしているんだから」と言うのです。上司は俳句をたしなまないのに、毎年、私の一句を楽しみにしてくれていたのです。そのことを聞いてからというもの、私は年賀状を出すたびに今年の句はどうかな、気に入ってくれるかなと思うようになり、いつしか年賀状を出す励みになっていました。

? ?同僚の女性は、「食事したとき、上司がこの句、気に入っているんだと言って、私に書いてくれたんだよ」と言います。私は彼女に「この紙くれない?」とお願いしましたが、彼女は「あげない。これは私の宝だから。いいでしょ」と言います。今となっては、その紙片は大事な形見となってしまいました。彼女とは、五月にアジアのメンバーに集まってもらい、「偲ぶ会」をやろうと約束して別れました。私のフィリピンの出発点はこの上司と共にありました。私はきっとこれからも年賀状を出し続けると思います。


神田外語キャリアカレッジ > ブログ > 仲代表の「グローバルの窓」 > 第40回 “Please stay in regular contact with the Mama-san here.” (ここのママさんと定期的にコンタクトを持つように)