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?ジャーナリストへの道⑤?広島で頭と足腰を鍛えられた?

2024/06/24

文 黒田 勝弘 (アジア言語学科韓国語専攻客員教授?産経新聞ソウル駐在客員論説委員)

筆者の顔写真

今から60年前の1964年(昭和39年)に記者生活をスタートした際、当時のメディア界の通例としてまず地方勤務を命じられた。地方での記者活動を経験した後、東京に戻って仕事をするという仕組みだった。地方の県庁所在地は中央の縮図のようなもので、地方での取材活動は新人記者の訓練に好都合と考えられていたからだ。そこで筆者は広島に派遣され、1965年から1969年まで4年間過ごした。この広島での経験はその後の記者人生で大きな財産となったように思いますね。
 
広島での取材活動にあたっては、広島県警や県庁、広島高裁?地裁、広島市役所などに記者クラブがあって、それらを拠点にあらゆるテーマを追っかけることになった。地方勤務では何でもやらなければならない。このあらゆるネタを追っかけるというところが、新人記者にはいい訓練になるというわけです。

ところが広島は原爆被災という世界史的(!)な出来事を経験した都市だったため、それにまつわる出来事や話題はいつも全国ニュースになった。地元で起きる事件や事故の多くはローカルニュースにしかならなかったが、いわゆる“原爆モノ”は全国で関心を持たれ、時には国際的ニュースになった。毎年8月6日の記念日をはじめ常時、内外の要人たちがひんぱんに往来するため、地方勤務ながら全国的かつ国際的視野を求められる取材が多かった。新人記者にとっては実にありがたく、やりがいのあるスタートとなったといえます。
 
思い出せば、当時、たとえば世界的に絶大な人気のあったフランスの実存主義哲学者ジャン?ポール?サルトルとボーボワール夫妻の原爆慰霊碑参拝に付き合ったこともあるし、「被爆の悲劇を克服して成功した人物を取材したい」といって訪ねてきた米国人記者を案内したこともありました。

当時、広島市役所には「渉外課」という部署があって、いわゆる原爆がらみの要人の往来など対外関係に関する動きや情報が集まるようになっていた。記者にとっては最大の情報源なので、毎日のように出入りした。部屋の片隅には英文タイプライターがあったので、ヒマにまかせてそこでタイプ打ちまで覚えた。課員のような顔をして入り浸ったわけですね。広島での原爆?被爆の話を書き出せばキリがないので、以下は前回、約束した広島カープの話に移ります。
 
筆者は4年間の広島時代にプロ野球取材もやらされました。すでに書いたように、地方勤務では何でもやらなければならないからだ。ところがこの取材は実に面白かったですね。米国のジャーナリズムには「新人記者のトレーニングにはスポーツ取材が最適」という話があるそうだが、筆者にとって広島でのプロ野球取材は原爆と共に最高の“思い出”となった。
 
当時、共同通信広島支局にはスポーツ担当のベテラン記者がいたが、その補助的役割で新人記者がいつも球場に同行した。カープのホーム球場だった市民球場は平和記念公園や広島城に近く、県庁や県警、裁判所からも歩いて行けた。そこで昼間は県警や県庁の記者クラブにいながら、日が暮れると市民球場に向かうということになった。球場ではバックネット裏のスタンドの上部に記者席があり、そこで試合を観戦しながら先輩記者の指示にしたがって動くというわけですね。
 
プロ野球取材の最初の年だった1966年のことは今も忘れられない。早速、歴史に残るすごい場面に出くわしたのだ。その話をするとプロ野球ファンはみんな驚き、かつうらやましがる。ジャイアンツが川上哲治監督の下で9連覇(1965-74年)がはじまったころで、その2年目は高卒の大投手?堀内恒夫が開幕から13連勝という大記録を続けていた。ところが14連勝を目指した広島市民球場でのカープ戦に負けてしまい連勝がストップしたのだ。これは大ニュースである。
途中で降板となった時、先輩記者は「ベンチに行って堀内の話を聞いてこい、ついでに堀内の連勝止まる!の記事を書け」という。スタンドの記者席から駆け下り、ベンチ裏で堀内の話を取り巻き取材で聞き、急ぎ記者席に駆け上がり記事を書いて送った。通信社は速報が命といわれた。試合後の戦評やじっくりした話は先輩記者が書くので、まず速報的な短いものは「キミが書け!」というのだ。
 
ところが翌日の新聞を見て驚いた。広島に届いた大阪印刷の『日刊スポーツ』の2面トップに筆者の記事が出ていたのだ。いわゆる早版というやつである。最終版では『日刊スポーツ』の担当者が書くが、地方へ早く発送する早版には早く送られてきた共同通信の記事を採用したというわけだ。スポーツ紙のトップ記事になったとは、新人記者にとってはこんなうれしいことはなかったですね。
そして実はこの年、また市民球場で大ニュースがあった。広島カープと大洋ホエールズ(横浜ベイスターズの前身)の試合で、ホエールズの佐々木吉郎が完全試合をやってのけたのだ。この時は先輩記者の指示で試合後、宿舎の旅館に出かけ、畳の大広間でみんなと晩飯中の三原脩監督の横に座り込んでインタビューした。プロ野球で完全試合を目撃できるのは専門のプロ野球担当記者でもなかなかチャンスはないのだが、筆者はこの後、1968年にやはり広島市民球場でもう1回、目撃したんですね。

カープの外木場義郎がジャイアンツ相手に完全試合をやってのけたのだ。一生に2度も完全試合を見たなどというのは、スポーツ専門記者の間でもほとんどいないのではないだろうか、と今なお自慢のタネになっている。しかし当時の広島カープは弱くていつも5位か6位だった。優勝するのはそれから約10年後の1975年だが、この年は川上ジャイアンツの連覇が途絶えた年でもあったんですね。
 
ただ、ここで紹介したかったことは野球のことではなく、記者の話だ。当時、広島でのプロ野球取材では、試合後に必ず両軍の「監督談話」を取って記事にするのが新人記者の仕事だった。わずか10行ほどの談話ふたつなのに、これが大変だった。まず球場を早く引き揚げるビジター側のベンチで素早く監督の話を聞いた後、今度はベンチ裏の通路を大急ぎで走ってホーム側の監督のところに行き、話を聞いてはすぐスタンドの記者席に駆け上がるのだ。これはまさに体力仕事である。新人記者のことを“駆け出し記者”というが、筆者は文字通りこうして毎日のように走らされた。前述のように歴史に名を刻む“国際都市?広島”では頭を鍛えられる一方、市民球場での広島カープ取材で足腰も間違いなく鍛えられましたね。